日本縦断42日目(2016年7月16日)
あの遠かった門司へ
連泊で少し疲れが癒えた僕らは九州最後の地となる門司へ向かった。
「門司」は船で沖縄を出て鹿児島に到着してからずっと目にしてきた地名だ。それは遠い遠い存在だった。
歩みを進める度にコツコツ、またコツコツと、表示される距離が減ってゆく。382km、333km、300km・・・コツコツと減っていった。暑い日も、涼しい日も、雨の日も、強風の日もただただ歩いた。高い山でも、小さい山でも、とにかく歩いた。
それでも門司はまだまだ遠い。
鹿児島辺りでは旅も始まったばかりだったので、全然近付いている印象はなかったが、熊本の後半辺りからは旅も慣れてきて門司へ近づいている実感がわいてきた。そしていつしかこの標識を見るのが僕らのモチベーションにもなっていた。
数字が減れば減るほど、僕らが成長しているように思えた。
そしてようやく今日、その門司に入る。
振り向かない彼らの背中
ホテルを出ると小倉駅周辺とは異なり、だんだんと人気がなくなっていった。
外国人労働者と思わしき若者たちが集団で自転車に乗って僕らを次々と追い抜いていゆく。
日本人なら僕らを見て何事かと振り返ったり話しかけてくるのだが、彼らにはそういう素振りは一切ない。いや外国人にもこの格好は異様に映るはずだ。これまでもそうだった。
しかし彼らは振り向くことなくただただペダルをこいで前へ前へと前進し、右から左から、後ろから前から一人また一人と仲間たちが合流する。そうやって膨らんだ集団は次々に工場へと消えてゆく。
僕らのそばを通り過ぎる際、彼らの表情に笑顔というものは感じられなかった。口角は少し上がっているがそれは笑顔には感じられなかった。彼らはどこか寂しげで、しかし強さと優しさを含んだ笑みにも似た表情をしていた。
その何とも表現しがたい表情で“孤独な仲間”と挨拶を交わしていたのが印象的だった。
言葉は分からないが、
「さぁ、今日もう仕事だ。つらいけど頑張ろうな。」
そう言っている気がした。
様々な国から個々にやってきて、異国の地で孤独という共通点を支えに必死に仲間と共に働いているのだろう。
その恩恵を我々は受けている。
そんな彼らに支えられている日本の現状を感じずにはいられなかった。旅ができる現状に感謝して、僕は彼らの背中を見るのをやめた。
“その時代”
さらに足を運ぶと徐々に周囲の“時代”が変わっていく。これはテレビでしか見た事のない昭和の時代だ。いや大正だろうか。それとも明治か。そこに生きていない僕らには分かりようがない。
赤いレンガに古びた建物たちが僕らをどんどん過去へといざなう。
右も左も赤く焼けた鉄分の塊が何層にも折り重なって“その時代”を現代で生きている。
(レンガの赤は鉄分が焼かれて酸化したもの)
これらはどうやら街を飾るためだけに残されているわけではなさそうだ。あちらこちらで作業服を着た人々が出入りし、煙突からは煙が出ている。まさに今も“生きている”のだ。おそらくこの地域全体が“その時代”に誇りをもって今を生きているのだろう。
何とも言えない力強さを感じる。
赤レンガの建物の中には、2年ほど前にNHKで人気となった「マッサン」のモデルの竹鶴政孝が興したニッカウヰスキーの門司工場もあった。僕らはあまりドラマなどは観ないのだが、マッサンは面白くて観ていた。夢を追うあの姿が僕は好きだった。
横を通っただけだが、何だかマッサンの時代に触れた気がした。
レトロな門司港
赤レンガの地域を抜けて1時間、僕らはレトロな港、門司港についた。門司港には観光客も多く、記念撮影をお願いされる。
ブルーウィングもじ
橋を渡ると紙芝居をしているおじさんに声をかけられた
旧門司税関
国際友好記念図書館
国際友好記念図書館(横側)
先ほどの赤レンガの通りといい、このレトロな門司港といい何だか門司は歴史を感じる街である。歩きながら観光スポットを通るものなかなか楽しい物である。僕らはメインの一帯を抜け、いよいよ関門海峡へと向かった。
途中、門司港の観光名物トロッコ列車「潮風号」がそばを走り抜ける。
いよいよ関門海峡の人道へ
10分も経たないうちに関門海峡が見えてきた。
だんだんと関門海峡の橋、関門橋の巨大さが肌で伝わってくる。これを人間が造ったとは思えないほど巨大だ。真下に近づけば近づくほどその巨大さに圧倒され、脈も乱れるのが分かるくらいだ。写真を撮りながら、唾をのんで冷静さを取り戻す。
その後、関門海峡の人道に向かっていると年配の女性陣に出くわし、すぐそこの神社でお参りするよう勧められる。せっかくなので今日まで歩かせてくれた九州の地への感謝と今後の旅の安全祈願をした。
これも運命だったのだろう。ただ通り過ぎることもできたが、先ほどの女性陣のおかげで改めて九州に感謝を伝える機会を設けることができた。有り難い。そして何だか心も清々しい。
「徒歩日本縦断の旅 九州編」完結
そしていよいよ関門トンネルの人道入り口に到着した。
ここを渡れば九州の旅が終わると同時に本州の旅が始まる。どんな旅が待っているのか、今からワクワクドキドキ胸が躍っている。
しかしその一方で僕らはある大きな問題に直面していた。でも今はこの九州を縦断できたという喜びと感謝、そして本州の旅への期待を味わうことに専念した。問題は今日の目的地についてから解決することにしよう。
関門トンネルの人道は海底にあるためエレベーターで地下に下りる。トンネル内部に到着すると、真夏でもやはり海底のトンネルは涼しい。とうとう九州ともあと数分でお別れである。寂しいような嬉しいような何だか複雑な心境だ。
思いにふけりながら歩いていると、県境に到着した。海底で県境をまたぐのは人生で初である。この県境をまたいだ瞬間、我々夫婦の「徒歩日本縦断の旅 九州編」が完結した。
この旅を思い立った当初はやる気はあるが、それ以上に不安の方が大きかった。特に妻は運動が苦手でまさかほぼ毎日30km近く歩けるなど到底想像もできなかった。当初は挫折するかもしれないという気持ちは大きかった。
しかし夫婦で乗り越えることができた。九州は本当に山が多く距離を踏んでも前に進まないという精神的にとてもきつい旅路だったように思う。
本州はどのような地形かさっぱり分からないが、この九州で鍛えてもらった足腰と精神力なら何とかなりそうだ。妻も十分強くなった。
また一つ成長した夫婦で「徒歩日本縦断の旅 本州編」に挑むとしよう。
牛若丸がお出迎え(壇ノ浦の戦いの地)
再びエレベーターで地上に上がり外へ出る。さぁここからいよいよ「徒歩日本縦断の旅 本州編」が始まる。何だか心躍る心境だ。
関門トンネルを出るとすぐ目の前に何やら像が見える。記念撮影をする人や何かを読んでいる人がいる。
近寄ってみると「平知盛」と「源義経」と書いてある。
そう、ここは壇ノ浦の戦いがあったとされる場所だ。平家が源氏に敗れ終焉を迎えたのがこの地とされる。子供の頃に習った歴史的な場所に僕らは今立っているのだ。これも旅の醍醐味である。
先ほどの赤レンガの通りやニッカウヰスキーの工場もそうだが、歴史的な場所を訪れると何だか自分もその時代に生きたような、あるいはその歴史に触れられたような、そんな感覚になる。これも旅の醍醐味の一つである。
平知盛
牛若丸こと源義経
安徳帝御入水之処
歴史を満喫し、ふと海に目をやると対岸には先ほどまでいた門司が見える。
そうだった。
「僕らはもう九州縦断を達成したんだ。」
と徐々に実感が湧いてくる。そして何だか自信もみなぎってくる気がした。もう胸を張って旅人と言える。対岸を見て僕はそう思った。
橋の下には先ほどお参りした神社が見える
九州(門司)を左手に本州の旅のスタートを切る
唐戸市場は押し競饅頭
さて、ここから今日の目的地まで4~5km、時間にして1時間半くらいだ。時刻は13時を過ぎたところ。そろそろ昼食をとっておこうと思った矢先、目の前に「唐戸市場」なるものが現れた。
一般客も大歓迎らしく外にも人が溢れている。刺身好きな僕は躊躇なく入った。中には寿司を並べた店がほとんどだ。じっくり見ようとするが全くできない。
そこはもう戦場と化し、人とぶつかりながらしか前に進めないほど混雑していた。まさに押し競饅頭状態だ。
それもそのはず、客のほとんどは海外からきた観光客の団体(やはりここでも中国語と思わしき言語が飛び交っていた)。ツアーでここに寄ることになっているのだろう。もしかすると何団体もいるのかもしれない。外にも大勢いた。
しかも今日は土曜だ。地元の人間や少し離れた場所から来たと思われる日本人客も結構見受けられた。
僕らは店のそばに近寄ることすらできず、押し出される形で唐戸市場をあとにした。押し競饅頭で負けてしまったのだ。美味しい海鮮をと、なんならフグ刺しでもと期待していたが、ここでの昼食は泣く泣く諦めることになった。
もう昼食を我慢してホテルに着いてから食べようということになり、再び目的地に向かって歩き始めた。途中、台湾から来たこれまた観光客に記念撮影をお願いされ、その後は何事もなく無事今日の目的地、下関駅西ワシントンホテルプラザに到着した。
ちなみに到着したのが15時頃だったので結局、昼食はとらず夕食を近くのスーパーで弁当を買って食べた。フグは次回にお預けだ。
本日の歩行データ
今日の歩行距離は20kmもいかなかったが、なぜか疲れた。時間的にも短かったのだが、どうやら小倉での連泊休養でも疲れが抜けきっていないようだ。久々に歩いたので、連泊前より疲れを感じやすかったのかもしれない。
宿泊場所 | 下関駅西ワシントンホテルプラザ |
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歩行距離 | 19.60km |
歩数 | 29,363歩 |
疲労度 | 8/10 |
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